成田市御案内人活動報告

2019年6月22日(土)
第1回成田市歌舞伎講座「歌舞伎ができるまで」

歌舞伎を通じて日本の文化・伝統芸能への理解を深めていただくため、今年度も全4回の歌舞伎講座を開催することとなりました。
第1回目の講座は「歌舞伎ができるまで」と題して、歌舞伎の脚本を執筆されている松岡 亮(まつおか りょう)さんをお招きして歌舞伎の魅力や面白さを分かりやすく解説いただきました。講座の内容の一部をご紹介いたします。

松岡さんは、松竹株式会社演劇製作部芸文室に所属しており、主に歌舞伎の脚本の執筆、補綴(ほてい)に従事され、上演の途絶えていた歌舞伎十八番の復活にあたり『蛇柳(じゃやなぎ)』『嫐(うわなり)』の脚本を担当したほか、優れた新作歌舞伎に与えられる第43回大谷竹次郎賞を受賞されています。

歌舞伎と成田のまちのつながり

成田は歌舞伎と大変つながりが深い土地であり、市川團十郎家と成田とのつながりをはじめ、『佐倉義民伝』の主人公である佐倉宗吾様のお芝居を歌舞伎座等で上演する時は、必ず宗吾霊堂に出開帳をしていただき、ロビーに宗吾様をお奉りすることが恒例となっています。
また、成田空港第一ターミナルの出国ゲートには歌舞伎の体験を行うことが出来る「Kabuki Gate」があり、海外のお客様に向けて歌舞伎の魅力を伝えようと松竹も協力をしております。
このように成田と歌舞伎のつながりの深いなかで本日は歌舞伎の脚本家の世界や歌舞伎十八番復活の裏話をお話しいたします。

歌舞伎の台本についての大きな誤解

歌舞伎は伝統芸能であり、その台本は江戸時代以来、一字一句同じ形で受け継がれているように思われていますが、実のところは、時代に合わせて手を加えられています。例えば戦前は内務省という省庁で台本の内容が公序良俗に反していないか検閲を受け、問題なければ上演許可がおりるという決まりでした。歌舞伎十八番の一つである『勧進帳』では弁慶の台詞の一部が歴史的事実に反しているということで、当時を代表するジャーナリストであった徳富蘇峰(とくとみそほう)が新たな台詞を作り、その部分だけ差し替えて上演していたこともありました。
伝統芸能でありつつ、現代におけるエンターテインメントの側面も持ち合わせている歌舞伎。現代性に則した形で受け継がれる過程の中で、このように台本も少しずつ変化しています。

歌舞伎の台本を担っていた人々

江戸時代から近代にかけて歌舞伎の台本を手掛けていたのは「狂言作者」と呼ばれる人々でした。 代表的な歌舞伎の狂言作者としては、『東海道四谷怪談』の作者である四世鶴屋南北(つるやなんぼく)、通称『白浪五人男』と呼ばれている『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』の作者である河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)の二人があげられます。
その他に人形浄瑠璃で名作を残した近松門左衛門がいますが、残念ながら近松門左衛門が最初から最後まで書いた歌舞伎の台本というのは現存していません。歌舞伎で上演されている『曽根崎心中』は、昭和に入ってから劇作家の宇野信夫が、近松門左衛門の原作をもとに歌舞伎に脚色して書き直したものになります。
狂言作者という脚本家として活躍する者もいる一方で、歌舞伎俳優でありながら脚本を書いていた人々もいました。その代表的な一人が初世市川團十郎で、自作自演の作品を多数残しています。よく知られている『成田山分身不動(なりたさんぶんしんふどう)』もその一つです。他にも三世中村歌右衛門や近松門左衛門の劇作の師でもある金子吉左衛門も手掛けております。この方々は脚本家としてはペンネームを使用し、初世市川團十郎は「三升屋兵庫」、中村歌右衛門は「金澤龍玉」、また金子吉左衛門は「金子一高」と名乗っていたそうです。
そして、現在では市川猿翁丈なども多くの脚本を手掛けています。

明治時代になると欧化主義政策の流れの中で演劇改良運動が起こり、その一環として歌舞伎作者もこれまでの狂言作者が担うのではなく、外部の知識層が担うべきという風潮が生まれます。その中で登場したのが、福地桜痴(ふくちおうち)として知られている福地源一郎です。
福地桜痴は演劇改良に尽力し、九世市川團十郎のブレーンでもありました。さらに明治の新しい国劇の方向性を示すために、歌舞伎座の設立にも奔走しました。

やがて狂言作者は、現在でいう舞台監督という仕事に代わり、外部の作者が脚本を手掛けるようになっていきます。明治の末から昭和にかけて活躍した代表的な作家として、岡本綺堂、小山内薫、真山青果、長谷川伸、三島由紀夫などがいました。現在では三谷幸喜さんなど外部の劇作家をお招きして歌舞伎の脚本を書いていただいたり、松竹の社員が書くなど、今の時代に即した歌舞伎を制作しています。

歌舞伎十八番について

歌舞伎十八番とは、七世市川團十郎が天保3(1832)年3月に制定した、市川團十郎家の芸のことです。当時、ご贔屓(ひいき)筋に配布した「歌舞妓狂言組十八番」と書かれた印刷物が残っており、そこに年月が記されていたことから制定時期が判明しています。

この天保3年3月は、市村座で七世團十郎が旧名の海老蔵へ改名し、長男の海老蔵が八世團十郎を襲名するといった親子二代が襲名する特別な興行があり、これに際して世間に歌舞伎十八番を発表したといわれています。
團十郎という名跡は、現在では歌舞伎界を代表する名跡として最後に名乗るイメージがあるかと思いますが、当時は10代後半から40代の若くてこれから伸びていく世代が襲名するものでした。

歌舞伎十八番を制定した意義としましては、市川團十郎家が歌舞伎界において特別な家であることを誇示するためであったと考えられます。
そのため、團十郎家が市川宗家と言われる所以は七世團十郎によるところが大きいといわれています。

十八番の「十八」という数字は仏教用語に由来するといった説が有力です。祝儀性のある数字「十八」に能狂言に由来する演目の単位「番」を組み合わせたのではないかといわれています。「おはこ」という読み方は、茶道具などにある「箱書き」のように、「本物の芸であると認定された」ということが語源といわれております。

初世團十郎が武蔵坊弁慶を演じた『星合十二段』の復活を目指し、それが『勧進帳』の創作、上演へと繋がりました。『勧進帳』初演は、天保11(1840)年3月、初世團十郎の百九十年の寿と銘打ち復活上演されました。

歌舞伎十八番を発表した天保3年の時代では上演が途絶えていた演目もあり、『七つ面』、『象引』、『蛇柳』、『関羽』、『嫐』、『不破』、『解脱』、『勧進帳』がそれにあたります。そして、ほぼ途絶えていた作品に『鎌髭』。当時上演されたレパートリーは『暫』、『鳴神』、『矢の根』、『助六』、『押戻』、『外郎売』、『不動』、『毛抜』、『景清』のみだったといいます。
七世團十郎はすべての歌舞伎十八番を復活させるつもりでしたが、天保13年、水野忠邦の「天保の改革」により江戸から追放されてしまったため、『勧進帳』のみの復活にとどまったといわれています。

復活を担当した作品

松岡が復活を担当した作品には、『蛇柳』、『嫐』のほか、『関羽』、『鎌髭』、『景清』、『解脱』の四演目を「通し狂言」として構成した『壽三升景清』(第43回大谷竹次郎賞を受賞)があります。
なお、歌舞伎十八番を復活するに当たり、ほとんどの演目において当時の台本などの資料は残っておりません。

『嫐』について

『嫐』は、元禄12(1699)年7月、江戸中村座で初世團十郎が甲賀三郎を演じた『一心五界玉』がその初演とされています。
『一心五界玉』については初世團十郎と二世團十郎を次のように記した資料が残っています。

「親父(初世團十郎)甲賀三郎と也 岩穴へ落とされて
五かい玉ことごとく出 岩の内屋敷と也 めかけ岡之助と
かやの内にてぬれの所へ 甲賀三郎娘(二世團十郎)と也
小才次は本妻也 其一心娘に取付怨霊 小才次
しょさを子役にて勤 岡之助親團十郎三人のしっと大当り」

しかし、これ以外の内容に関する記述は特に残っていませんので、これをもとに復活させるのは至難の業です。

近藤清春「金之揮」(国立国会図書館蔵)


『嫐』は、昭和以降3度復活上演されたことがあります。
・昭和11(1936)年 五世市川三升(十世團十郎)によって復活
・昭和61(1986)年 二世尾上松緑によって復活
・平成27(2015)年10月 市川海老蔵がシンガポール公演に際して復活

『嫐』復活への道のり

海老蔵さんから『嫐』の復活について相談を受け、平成27(2015)年7月に執筆を開始しました。
2015年8月6日には現代語の台本が完成し、同年8月23日に擬古文の台本が完成しました。

2015年9月末日より、海老蔵さんの八千代座の公演に合わせて熊本にて稽古を始めました。まず稽古用台本をもとに、振付の藤間勘十郎さんと作曲の杵屋勝松さん、作調の田中傳次郎さんが揃い、海老蔵さんのお弟子さんを中心にして、叩き台となるものを構成しました。これをふまえて海老蔵さんも参加されての稽古を開始し、連日連夜に渡り、台本、振り、曲の改訂を重ねていきました。
10月6日には決定稿の台本が完成し、この台本をもとにシンガポールでの稽古を重ね、初日を迎えました。
このシンガポール上演台本に改訂を重ねたものを本年4月に「古典への誘い」の中で再演しました。

質問コーナー

歌舞伎十八番の中で復活されていない演目はありますか?

十世團十郎が一通り復活しているのですが、「ゼロから作り直した演目」ということでいえば、『不破』ただ一つが未だ復活されていない演目となります。

参加者の声

〇今まで知らなかった興味深い内容で大変満足しております。また是非とも申し込みたいと強く思いました。あっという間の講演でした。ありがとうございました。
〇『嫐』の製作のお話が大変面白くためになりました。歌舞伎の歴史も分かりやすくありがとうございました。勉強になりました。