成田市御案内人活動報告

2017年6月17日(土)
歌舞伎講座 第1回 歌舞伎入門「歌舞伎に親しむ」

講師に松竹株式会社 演劇営業部の窪寺 祐司さんをお迎えし、第1回 歌舞伎入門「歌舞伎に親しむ」を開催いたしました。

募集も早々に定員に達して受付終了となり、第1回目から大変多くの方にお越しいただきました。5月12日(金)~14日(日)に行った歌舞伎座木挽町広場でのプロモーションで知った方や、県内の方だけでなく東京都や埼玉県から総勢100名の方に参加いただきました。映像を交えたりして、歌舞伎を観たことのない方にも分かりやすく、歌舞伎の「イロハ」や歴史についてお話いただきました。

お越しいただけなかった方のために、内容の要点をご報告いたします。

歌舞伎はエンターテインメント

歌舞伎は、400年以上の歴史があり、日本を代表する古典芸能の1つではあるが、現代の俳優が演じ現代を生きるエンターテインメントである。

今でも歌舞伎は、お客様から入場料をいただく商業演劇であり、エンターテインメントであり続けている。お客様がいないと成り立たず、その時々のお客様に合わせて今でも作り続けており、その積み重ねが現在の歌舞伎となっている。

歌舞伎を観たことない人は、堅苦しくて真面目に観ないといけないのかなと思っている人も多いが、実際の劇場では、笑ったり泣いたり拍手したり、とても楽しんでいる。

「歌舞伎」という文字

「歌」=音楽、「舞」=踊り、「伎」=演技、音楽的で舞踊の要素も演技(お芝居)もある演劇である歌舞伎の特徴をとてもよく表しているが、「歌舞伎」という文字は「当て字」である。本来は、かぶく(傾く)という言葉からきている。

江戸時代、あえて人の目を引くような奇抜な格好をしたり喧嘩をしたり、人を驚かすような振る舞いをし、若さやパワーを持て余していた若者のことを「かぶき者」と言っていた。当時、町中にいた「かぶき者」たちは格好よく時代の最先端であった。

1603年、京都で国(くに)という女性が、そのような「かぶき者」たちの姿を取り入れた「かぶき踊り」を始め、それが、歌舞伎の発祥だと言われている。

女方(おんながた)

江戸幕府から女性が舞台に立つことを禁止されたため、男性が女性の役もやるようになった。

成人男性と成人女性の体つきは全然違うため、女性の物まねをすることは出来ないので、男性がどうやったら女性らしさを表現することが出来るかを追求したのが女方である。女性の物まねではなく、男性が男性の体を使って女性を演じ、表現することである。

明治時代になり、女性が舞台に立つことが出来るようになり、女優が歌舞伎に出ることもあったが、歌舞伎とは、女方の芸を前提として作られているため、女方に戻っていった。

年齢・身分さまざまな女性を演じ分け、どう表現するかが女方の芸である。

隈取(くまどり)

「歌舞伎」=「隈取」というイメージがあるが、実際は、隈取の登場人物がいるお芝居は少ない。

隈取は、顔の筋肉や血管を強調したものであり、初代市川團十郎が考えて二代目が完成させたと言われている。

隈取の色によって意味が違う。赤色の「紅隈(べにぐま)」は、勇気や正義、エネルギーに溢れている様子を表現している。反対に藍色の「藍隈(あいぐま)」は、紅隈とは正反対な悪や陰、邪悪など、マイナスの力を表現している。茶色の「代赭隈(たいしゃぐま)」は人間ではない、悪い妖怪などを表現している。

色によって違うので、出てきただけで、良い人なのか悪い人なのかどのような人なのか分かりやすい。

一度、顔を真っ白にして、筆で書いていく。一人一人骨格が違うため、自分の骨格に合わせてアレンジしている。

歌舞伎の根っこ (演出や舞台について)

歌舞伎は衣裳や様々な装置で、お客様を驚かせたり楽しんでもらうことが根っこにあるお芝居である。

歌舞伎の衣裳

その人らしさや身分や境涯を表しており、隈取と同様、見てすぐどのような人なのか分かる。

揚巻(あげまき)

豪華絢爛で、お正月がモチーフの打ち掛けになっており、女方の衣裳で1番重たい。打ち掛けだけで28kgほどあり、大きなかつらと30cm以上ある高下駄を合わせると総重量33.5kgになる。

引き抜き

一瞬で衣裳が変わる。

花道(はなみち)

最近は、普通のお芝居でも登場人物が客席の通路から出てくることはあるが、歌舞伎では昔からやっている。

揚幕(あげまく)

花道にある幕。この幕を上げ下げして登場人物が出入りする。

セリ

舞台上で、登場人物を乗せて上げたり下げたりしてスペクタクルなシーンにしたりする。

すっぽん

花道にもセリの機能がある。お客様の横にすっと出てきたり消えたりするので、不思議な術を使えたり、人間でなかったり怪しかったり不思議な能力を持っている登場人物が出入りする時に使用される。

回り舞台

舞台上の円形部分が回る装置。270年ぐらい前に大阪で日本人が考えたと言われている。

俳優あれこれ

演じる度に役名やシチュエーションは様々であるが、衣裳は代々受け継がれている。そして、名前も受け継がれている。受け継がれる名前のことを名跡(みょうせき)と言う。中でも市川團十郎と言う名前は、江戸時代では非常に大きく重たいものであった。

また、俳優には屋号があり、成田屋という屋号は、1番古く、1番最初に作られた屋号だと言われている。

歌舞伎は俳優中心の演劇であるため、歌舞伎の歴史と言うのは、名優たちの歴史でもある。

市川團十郎家と成田不動

初代市川團十郎の父親が成田の近くに住んでいたと言われている。元禄時代より前の話なのではっきりした情報は残っていないが、下総の方にはとても縁があったと伝承されている。

また、初代市川團十郎は、お不動様の申し子だと伝承されている。代々成田山にとても深い縁があり、深く尊敬していたと言われており、それは現代も続いている。

歌舞伎十八番「不動」

成田屋のお家芸は「歌舞伎十八番」と「新歌舞伎十八番」。

歌舞伎十八番は、それぞれ独立したお芝居があると思われがちだが、「不動」とは、市川團十郎が不動明王に扮する場面があれば、歌舞伎十八番と言い、歌舞伎十八番とは演目ではなく、シチュエーションのことを言う。

「成田山分身不動」

元禄16年、初代市川團十郎が胎蔵界の不動明王を演じ、息子の二代目市川團十郎が金剛界の不動明王を演じ、親子で不動明王を演じた。

平成4年、十二代目市川團十郎が自主公演「興教大師850年御遠忌記念興行(元禄歌舞伎再興)」を歌舞伎座で復活上演した。元禄16年の公演にならい、十二代目市川團十郎と十一代目市川海老蔵が親子で不動明王を演じた。舞台上に客席を作ったりし、江戸時代の劇場を再現した。今では珍しく客席からお賽銭が飛んできたりもした。

初代市川團十郎が不動明王を演じると、毎回客席からお賽銭が飛んできたため、そのお賽銭を成田山に納めたと言われている。

表参道体験ツアー

講座の後は、希望者の方に表参道体験ツアーを開催いたしました。
「歌舞伎のまち成田山表参道全図」を配布し、成田市文化芸術センターから成田山新勝寺までの道中、歌舞伎を切り口とした看板や装飾の紹介や、観光スポットなどを案内いたしました。